aeonnous’s blog

Aeonnous教授の隠逸生活と意見

分断社会と五輪

五輪は1936年のベルリン大会で、各国のナショナリズム高揚の場となった。

優勝選手が多い国が強国であり、すぐれた体制であるという競争の場となった。

スポーツに国境はないといいながら、国境を設けて、国同士が競うこととなった。

 

もちろん、五輪ではいいわけはされていて、掲揚台にあがる旗は国旗ではなく、各国五輪委員会の旗であり、政治化はしていないという。これを、故事ことわざで、「鹿を指して馬という」、というのである。実際は団旗と国旗が違うのは例外的で、国旗は国旗だ。だから、私は五輪はみたくない。

 

団体競技でも、国籍混交でよいのに、外国人はナショナルチームには入れない。

チームビルディングを経て受け入れられた外国人選手でも、排除される。あるいは、父母の国を離脱して帰化しなければならない。金にあかした「傭兵化」や選手引き抜きを禁止したものだろうが、4年以上滞在すればいいのではないか。この国際化した世界の現実に目を背けるようなものだ。だから、私は五輪は見たくない。

 

特に個人競技は個人で競争すればよいものを、選手は国を背負い立つ。

ここに、一種の悲劇性が生じることもある。だから、私は五輪は見たくない。

ミスしたっていいじゃないか。別に国を背負う必要はないよ。

思いつめる必要はないさ。

 

おそらく、すでに国際政治では「反エリート主義」が潮流となっているが、さらに社会の分断が進むと、ほとんど多くの人たちは、スポーツエリートに対しても政治エリートに対する同じまなざしを向けるだろう。

スポーツエリートに対するその自己犠牲や鍛錬への尊敬よりも、多くの人がリソースを共有できない早期英才教育、スポンサーの存在、政府補助金や報奨金などをエリートが独占していることへの不公平感が強まっていくかもしれない。不快な現実に直面すると、人は多く無関心になる。

 

反発や無関心の兆候が、五輪中継への世界的な視聴率の低下である。

国の代表としてのラべリングによって、ますます反エリート主義の標的となりうる。

 

スポーツの栄光を、もう一回、人間の尊厳にたちかえり個人レベルにもどすべきではないだろうか。すなわち、国歌国旗を用いず、外国人のナショナルチーム参加を緩和し、また、極端な商業主義を排することにある。