「がんばれ」?
心からの応援はありがたいものです。
選挙でも、スポーツでも「がんばれ」という掛け声をよく耳にしますね。
掛け声に、連帯があれば、応援を受ける方も、勇気百倍になることもあるでしょう。
昔、「頑張れ日本」というような標語もあったような記憶もあります。声をかけて応援した選手が文字通り頑張ると、うれしい気持ちになるのは、確かです。人間がもっている感情移入、自己投入による陶酔は、たくみに産業化されています。テレビ文化の中では、画面の向こうの聞こえない相手にしきりに声援を送っているわけで、たとえば五輪中継が莫大な放映権料で行われるのも、この自己投入の陶酔に経済価値があるからなのですね。このへんから「がんばれ」の倒錯、すなわち、対象のために掛け声を行うのではなく、自己満足のために行うことが始まるのです。
その一方で、「がんばれ」という言葉が、これ以上ないほど冷たく響く時もあります。
「がんばれ」が更に倒錯して、相手をおもう気持ちがゼロになると、世の中でも一番醜悪な悪意に満ちたことばと思いますが、「せいぜいがんばって」という言葉がありますが、見たくも使いたくも聞きたくもないですね。「がんばれ」もこうなると、無用のプレッシャーと突き放した感じだけが伝わってきます。うつ病の方に「がんばれ」は禁句という学説もあるようですが、すこしわかるような気がします。
ことばは、毒にも薬にもなりますね。慎重に使いたいと自戒したいと思います。