aeonnous’s blog

Aeonnous教授の隠逸生活と意見

「よい円安」? その4 「本当はこわい円安」の記憶

円安で国が衰亡した例があります。

 

それは、昭和5年(1930年)の「金解禁」です。

第一次世界大戦によって、日本の国力は急成長しました。勝ち組の協商国側について、しかも国が戦場にならなかったので米国とならんで世界貿易での輸出が急増し、国際的地位が上がって世界の五大国となったわけです。

国内では成金が、お札でタバコを巻いてふかしていたという時代です。80年代のバブルでも聞いたことがありませんね。

 

大正時代の第一次世界大戦当時、各国は、莫大な戦費捻出と金銀の騰貴のため、それまでの金本位制の運用を停止しました。大量に発行されたお札をもっていっても、金貨に交換はできないことにしたわけです。日本金貨の100円が米ドル金貨で約50ドル弱という明治時代の固定為替レートは停止となりました。管理為替制度は、戦争とともにあったわけです。

 

1918年、第一次世界大戦がおわり、各国は、金本位制による国際取引に復帰をはじめました。日本は関東大震災(大正12年、1923年)があって、復興のためにも金融・財政の緩和を継続しなければならず、大量のお札が必要であり、そのために金本位制の実際運用(金兌換:日銀券と金貨の交換の実行)への復帰がもたもたしていたわけです。震災もあって、為替相場では100円は、40ドル台を割り込む円安となりました。(戦前は、100円あたりの米ドルの上下で円安円高と素直に表示されていたわけで、今の1ドルが120円から139円に数字が増えて円安というひねり方よりわかりやすいですね。)

 

1927年、大戦バブルの完全な崩壊ともいうべき金融恐慌が起こり、銀行が破たんしていき、さらに為替相場は乱高下します。こうした為替変動に対しては財界から批判が強く、安定した相場を、国際的な金本位制復帰によって実現してもらいたいと圧力がかかったわけですね。財閥の頭の中は、古い古典派経済学があったのでしょう。

 

ようやく、1930年1月に浜口雄幸首相と井上準之助蔵相は、金本位制の固定レートによる貿易を金貨で決済できるように復帰させます。そのために、1929年から井上蔵相は、第一次大戦と震災でふくれあがった国内のインフレを緊縮財政で一気にひきしめます。これが「井上財政」です。これは国民に膨大な「痛み」を与えるものでした。バブルとインフレを金融引き締めで一気に退治しようとしたから、当然困窮します。

 

しかし、これはあまりにも遅すぎました。1930年1月、金本位制の運用の復帰、すなわち日銀券と金貨の兌換を、明治時代の円高な為替レートで行ってしまうのですが、1929年10月には世界大恐慌が発生して大混乱の中を、予定通り行ってしまったわけです。

 

固定レートのもとで順調になると期待していた生糸製品ほかのアメリカへの輸出は、アメリカ経済の需要萎縮でまったく進まず、円の実勢外国為替レートは、暴落していきます。明治時代の高いレートから無理に始めたので、一気に円安に進んだわけです。為替レートが一定以上に暴落すると、アメリカからわざわざ日銀まで金貨を引き取りに行っても元がとれます。これを現送といいます。

 

ここで、政府は、金の兌換にこだわっていたために、日銀の大金庫は開け放しになっていたところ、安い実勢レートで仕込んだ円為替をもって、兌換用の金貨が日銀からひきだされ、アメリカに向けて大量に流出したわけです(資本流出)。こうなると、日銀の兌換準備金は減少して、紙幣の発行高は減少、国内はますますデフレに陥ったわけです。外為市場で円はついに100円=20ドルまで暴落します。大量の金貨が流出して、1931年暮れにやっと金兌換は停止、日銀の金庫は閉じられたのでした。

 

まあ、FX投資家の俗語に言う「タネ銭を溶かした」ということになるわけですね。この貿易赤字と円安への外為投機などを通じた資本流出によって、大恐慌時代の日本経済は徹底的に傷み、悲惨な「昭和恐慌」に突入するのでした。特に農村の窮乏はすさまじく、これがあとで「青年軍人の義憤」を買って、軍事クーデター事件につながっていくわけです。

 

まさに、日本の労働者の賃金の下落は円安と相まって、インドよりも低い「インド以下的低賃金」が続くことになります。

 

「本当はこわい円安」は、この資本流出にあります。いまから90年前の1930年代の「金解禁」について、まだ1970年代から80年代は、現代人がバブル崩壊を教訓にするように、生きていました。わすれてはいけないと思います。現在、われわれの目の前でおこっていることの既視感はこのへんからくるのです。

 

金解禁の際発行された日本銀行兌換券10円札(筆者所蔵・不可複製)

「此券引換に金貨拾圓相渡可申候」という兌換約束は、2年も守られませんでした。