aeonnous’s blog

Aeonnous教授の隠逸生活と意見

奇妙な骨董品 ファンタジーの宴

ヤフオクでおもしろい出物がありました。大清乾隆年製の琺瑯彩の碗です。

 

よそ様の御商売なので、直接リンクは示しませんが、「某財閥」ゆかりの「某寺院」様からの委託品というものだそうです。

手の込んだ仕掛けです。

清朝琺瑯彩という磁器の最高峰といわれるもので、写真でみるかぎり、ほんとうに精巧にできています。

しかし、なんとも不思議なことに、碗の底に精巧な小楷で上絵付けされた銘文がいけません。簡体字がつかわれております。乾隆年間の銘文に20世紀後半の中国の簡体字がつかわれているのは、アナクロニズムにもほどがあります。

 

ここまで手をかけながら、こうしたことが起こるとは、せっかく手間暇かけてこの骨董を作った人も売る人も、そして、買う人がいればその人も、基本的な知識が欠乏しているということになります。20年前ぐらいの贋作品にくらべ、おそらくスキャン・プリント技術の向上により、陶器も技術的には、清朝時代にけっこう肉薄しているのですが、残念ながらへんな銘文をつけるからだめです。昔は、御窯磁器の偽物は手書きの落款(「たとえば大清乾隆年製」など)がだめでしたが、今は図録からスキャンしてプリントするのでしょう。写真ではわかりません。

 

まさに、これはファンタジーというものですが、中国語ではこのような骨董品もどきを「古玩」といいます。まさに、いにしえで遊ぶ玩具なわけです。このような奇妙な宴をなぜみな真剣に行っているのか、そちらの方が興味深いです。

 

一時期、日本に残された彼の地の骨董品がだいぶ掘り出され買い戻されました。ターゲットは彼の地にあるのかもしれません。

【音盤渉猟】唖蝉坊「解放節」は百年たっても斬新だ

約100年前に登場した添田唖然坊の「解放節」は、社会的イントレランスを乾いたユーモアと痛烈な風刺で歌い上げます。

添田唖蝉坊・山路赤春/ 解放節 土取利行(唄・演奏) - YouTube

 

これが本来の演歌、自由民権運動以来の、政治的メッセージを含む演説的な歌だったわけですね。大正の末年、治安維持法の制定され、また蓄音機や国営ラヂオが急速に普及するとともに、大手レコード会社が配信する演歌は、脱政治化し、次第に、情を切々と訴えるばかりとなります。

 

一番の歌詞は、昭和恐慌不景気の中での教員の飢餓と困窮化を謳ったもので、おそらく、現代日本もその時代に入るのも時間の問題でしょう。

二番の歌詞は、「温情主義の模範工場」で「社長が論語を読む」が、「職工の空腹はどうしてくれる」というものです。

これは、渋沢栄一の「論語と算盤」(1916年)に雷同する経営者たちを痛切に皮肉ったものといえましょう。

昨今の皮相的な渋沢栄一ブームはありましたが、実際の賃上げや恒久減税に結びつかないのは、なぜでしょうか。孔子様がなげいていたように、世に仁を躬行するものがいかに少ないかということですが、『論語』の原文には、「20%の税率でも政府の徴税が足りない」と嘆く為政者に対して、孔子様の高弟の有若は、「どうして10%に減税しないのか」(蓋ぞ徹せざる)と述べています。

減税による経済回復効果は春秋時代にもうわかっていたのです。

三番の歌詞は、地方出身の少女への搾取の現実を嘆くもので、コロナ禍での現代の日本でもおなじような社会問題から免れないといえましょう。いろいろ法案をつくっても根本的解決には程遠いものがあります。なぜなら、東証プレミア上場の大企業の経営当事者が世上一流とされる大学院で地方出身の女性を蔑視、物化するような失言を教壇の上で白昼堂々するような状況では、SDGs5の達成は百年河清を俟つようなものでしょうが、残念ながら百年たっても変わらなかった日本社会といえましょう。

【音盤渉猟】みなさん よい週末を ピアソラとともに…

金曜日の夕方になりました。

やっと俗事から解放されますね。

 

ピアソラを口ずさみながら、寄り道して街に向かうことにしましょう。

今日はあつかったので、すっきりした辛口の冷酒とおきゅうとぐらいがいいでしょう。

 

youtu.be

 

Jeroen van Veenさんの演奏もまた、陰影に富んだ情感豊かなものです。

 

坂本龍一さんの作品もカバーしています。

 

 

 

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裏ワザ便利帳 広告ブロッカー

遂に導入しました AdBlock

幸せです。

なぜなら、見たくもない広告から解放されたからです。

なぜ、食後に、あるいは、ヌアラエリアの紅茶でフィナンシェを食べる至福のおやつの時間に、爪水虫や角栓やその他のなまなましい写真をみなければいけないのでしょうか?

あらゆる病気の方を差別する気持ちはないですが、患部の写真を常にみさせられる必要もまたないでしょう。そのよこに百貨店のお中元の涼しげなお菓子の広告などもあり、わけがわからないにもほどがあります。

 

設定においてはこちら様の記事を参照いたしました。

tech-camp.in

某同業他社IT企業様との無駄な戦いの記録

また、SDGsを謳う某大手IT企業さまのポータルで、女性への蔑視に満ち、格差差別を助長するような、あるいは、暴力を助長するようなくだらない漫画の「ヒトコマ」広告をみなければいけないのでしょうか。(このキーワードがトリガーしてそういう広告がでてしまったらごめんなさいです。)

 

この点は、私は、某携帯電話も運営する大IT企業様に苦情を投稿しました。「御社は、SDGsへの取り組みを別のHPでは宣伝しことさらに毎日SPAMで顧客に誇らしげに送りつけてくる一方で、(SDGs目標5に反して)女性を辱めるような漫画のシーンや残酷な暴力を描写する漫画の広告を、再三の不表示設定にもかかわらず、なぜ表示するのでしょうか。」と。あるいは「閲覧者が全く関心のないと既に何度も表明している広告、そのようにお伝えしている広告をなんども表示して、閲覧者の属性にしたがったターゲット広告として、広告主から広告収入を得ることは問題ではないですか?」と。あるいは、「御社では、こうした女性を辱めるような漫画を社内で閲覧していても、セクハラにあたらないようなコンプライアンス状態なんでしょうか?」などなど、いっても無駄はわかっていますが、そのような偽善にわたくしは、我慢ができません。以前、SDGsに関する仕事にもたずさわっていたので、なおさらに感じます。

 

この巨大企業との戦いは利がありません。ただ、この携帯電話は私はいずれ解約しようと思います。なぜなら、そのようなコンプライアンスの会社にわたくしは関心がないからです。わずかな報酬で広告のために顧客の属性を売り出す会社が、顧客のためになにかしてくれるわけがありませんから。

 

報酬広告の仕組みで限りない低価格で大量に配信できる広告によって占拠されるありさまは、まさに「パブリック・ドメインの悲劇」を地でいくものですね。

 

おそらく、近い将来入るメタバースは、このようなみたくもない広告に満ちた暗澹たる「にぎやかな未来」なのでしょう。こっちむけば角栓、こっちむけば爪水虫、メタバースの書店にはいればみたくもないヒトコマ漫画広告のディストピア。。。

せめて、コンプライアンスのある企業様の広告が見たいですが、すっかり広告費も減ってしまっているようです。

なお、はてな様はわたくしの知る限りは、広告はそれほど嫌な感じはしません。よいポータルだと思います。

【お題】好きだった給食メニュー カレーソフトめん

好きだった給食メニューは、カレーソフトめんです。

1970年代、パン食中心だった給食のなかで、「カレーソフトめん」は、おおむね月に一回出ていましたが、とても好きでした。

 

学校調理の時代でセントラルキッチンで炊いた米飯を出す時代ではなかったので、カレーライスは、修学旅行ぐらいにしか学校ではおめにかかりませんでしたから、カレー味の料理は、これに尽きていたわけです。

 

スープカレーにちかく、いまから思うと薄いのでしょうが、十分おいしく思いました。後年、インドネシアのジャワ島東部でカレーをたべたところ、似たようなスープ系のあっさりとしたものがありました。

 

めんも薄いポリエチレンの袋にはいって、生暖かくのびきったしろもので、先割れスプーンでは扱いにくいものでしたが、開封前のあの粉の香りが、いまでもむせかえるように思い出されます。

後年、福建省それから東南アジアにひろがるコメの麺である粿條がこれに近いとおもいました。

海外に行って現地の料理をたべて、昔の給食を思い出すのは、それはホームシックだったに違いありません。だから、それは「好きだった給食メニュー」なのです。

 

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【音盤渉猟】典雅にして優しい癒し バッハ「フランス組曲」by Yuan Sheng

昔、某国営放送で、「ピアノのおけいこ」という放送がありました。

 

中村紘子先生のご教授で、良家の子女とおぼしき生徒が一生懸命難しい曲を弾くようすを見るのがすきでした。

 

1970年代はじめごろ、私の家にはまだピアノもなかったのですが、フランス組曲の回が続いていたのにひきこまれ、こんな世界があるのだ、と心に沁みるものがありました。

それが、私のバッハとの出会いでした。

 

たしか白黒の放送だった記憶があります。記憶が白黒になってしまったのかもしれません。。。フランス組曲というとこのシーンを思い出します。

 

このYuan Shengさんの演奏、ピアノによる演奏で、情感情緒を歌うものがあります。しっとりとした演奏で、そうした過去の哀歓に満ちた思いでを想起させるものがあります。

youtu.be

チェンバロによる厳格な学術的なバッハ演奏という古楽復興のとりくみもきらいではありません。冷厳高踏にも聞こえるレオンハルト盤に傾倒していた時期もありました。しかし、最近、初老の門も近づくと、哀歓を尽くした「やさしい」演奏に吸い寄せられてしまいます。

 

「みなさまの」国営放送がもっていたドイツ教養主義の伝統は、いつしかなくなってしまいました。今の教育放送の惨状は見るに堪えません。そこまで媚びないと勉強しなくなったんでしょうか?言葉遣いもぞんざいな「〇〇ちゃん」が教養番組といわれると、昔の中村紘子先生の上品な会話を思い出し、とても悲しくなるのは、やはり初老の感傷でしょうか。だから、私は、テレビを捨てて、国営放送は二度と見ないのです。

”よい円安”?その2

前回のこの題の投稿から50日がたって、さらに、1ドルは135円を上回りました。

円安について政治や報道でも議論がおこなわれていますね。

ただ、「よい円安」、「悪い円安」という非常にざっくりとした議論がまだまだ行われています。もうすこしきめ細かく議論しないと、粗すぎるのです。

 

「よい円安」とは、そもそも何なのでしょうか?

経済学的に言えば、貿易については、円安は、日本にとって、「交易条件の悪化」にほかなりません。その意味においては、「悪い」のです。

輸入でいえば、1ドル100円で買えたものが、135円になってしまうわけです。

輸入でいえば、完全に不利であることはわかりますね。

 

政府やマスコミの刷り込みで、円安は輸出に有利じゃないの、という反応がありそうですが、「交易条件の悪化」についていえば、以下のようになります。

 

すなわち、国内価格100円のものをその価格で契約して輸出して、1ドル100円なら、1ドルくれたのが、1ドル135円になれば、74セントにしかなりません。これ、有利な商売ですか?

 

海外価格が1ドルなら、それに応じて135円に値上げしてもらえばばいいじゃないか、というかもしれません。その会社が独占的なサプライヤーであればそうできるでしょう。しかし、国内で過剰生産、過当競争が行われていれば、すぐに同業他社様にお株を奪われますね。135円に値上げしたと同時に、120円で「がんばれる」会社に仕入れをもっていかれます。しかも、同業他社様は、国内だけでなく、お隣の国も含めて世界いたるところにあります。よって、なかなか国内価格は為替程はあがりません。これを弾力性といいますが、現在、日本でデフレが続いている状況で、円安になるとは、こういうことですね。

 

「よい円安」は、過去の僥倖だった

この「よい円安」という貿易経済学の法則にあてはまらない不思議な事象は、まさに過去の僥倖だったわけです。すなわち、日本の高度経済成長期、アメリカの覇権と冷戦構造そして欧州の戦後復興という巨大な需要が生じるなかで、日本は工業化を推し進め、供給を拡大でき、資本蓄積をおこなえたわけです。70年代オイルショックにもみるように、世界はインフレで進んでいったわけで、日本も例外ではありませんでした。

 

「よい円安」論がおこったのは、1980年代、冷戦末期、プラザ合意によって円高方向に舵をきったところで、いわゆる「円高不況」が生じたところでした。それまでの円安による経済成長をよしとする学説が生じ、学術的な「円高論争」が日銀と東大教授の間でおこなわれましたが、いまから思うと本当になつかしいですね。「円高は交易条件の向上であり、『円高不況』は政策があれば乗り切れる」と学者が政府に直言批評する勇気と良心をもっていた時代のおはなしです。

 

歴史は、「円高不況」をのりこえ、日本が蓄積した円の資本の国際資産評価をたかめることによって、資産効果によって景気回復から未曽有のバブル経済になっていくわけです。国際競争力が日本の産業に十二分にあったころの話ですが、あらゆるセクターがバブルの処理を二重三重にもあやまって「平成大恐慌」から「失われた30年」に苦しんだわけです。

 

この10年来の「円安誘導」は日本経済の復活につながったか?

統計がすべてをものがたりますね。

経済政策の最終目的は、国民生活の向上にあるわけで、そのためのGDPなわけです。

今世紀に入って、国民が自由に使えるお金である可処分所得それから消費が低迷していることは、政府の統計でもあきらかです。客観的に見て、「円安誘導」は、交易条件の不利化を通じて、国民の窮乏化につながったといわざるを得ないです。

 

日銀が金融緩和をいくらしても、開放経済、すなわちお金とものの動きが自由化された国の経済では、インフレになりようがありません。

 

株式相場があがったではないか、という言い方がされますが、資本や貯蓄は成長している、ということは、とりもなおさず、貧富の差がとても拡大しているということにほかなりません。だれのための「よい円安」かといえば、海外金融資産をもった人たち、すなわちリスクだらけの外貨資産がある人たちにほかなりません。その代償は、国民がもっている円資産の目減りなわけです。バブル期と逆回りの逆資産効果は、今後、一層の日本国民の窮乏化につながっていくことでしょう。

ジニ係数ではまだまだ日本の貧富の差はましだ、という統計もありますが、これは所得統計だけですから、たとえば企業経営者や大企業正社員が享受している企業年金・医療ふくめた福利厚生や交際費や社宅などフリンジ・ベネフィットやそのほかの特権などははいっていませんね。ジニ係数だけで言い切るのは、日本国内の不均衡という実態を隠蔽することにほかなりません。

 

日本は、国のかたちを大きく変えました。80年代までの世界の工場といわれた貿易立国から、バブル期の世界最大の債権国となりしばらく投資のあがりからくる経常収支黒字国、また、現在は貿易収支は赤字になってしまい、円安によって世界経済に占める地位も大きく低下し、経常収支という過去の蓄積のあがりを食いつぶしていくしかないのです。貿易立国の夢にもどるには、道は遠すぎます。

 

日本経済の再生のカギはのこされた資本をいかに活用するかにあるわけです。それを必要以上に安売りしてはいけません。