aeonnous’s blog

Aeonnous教授の隠逸生活と意見

十八史略 人物の鑑定法

中国の古典の人物鑑定学というのは、一時ずいぶんと流行した。

 

平成時代のビジネス書でも、教養書でも、孫子やら、史記やら論語やらの講釈が流行したものだった。もちろん、最近でも、「論語と算盤」が注目されたようだが、以前のような国民的流行というものには、ほど遠い感じがする。

 

最近は、なんとなく敬遠されているようだが、それにはいろいろな背景があるのだろう。現実世界においては聖人君子や英雄好漢に逢う機会はほとんどなく、したがって、自らもそのようにふるまうことはさらに必要がないという現実主義、いわゆる反教養主義の所以であろうか。

 

中国の古典を引用すると、教養主義が残っていた平成時代ごろまでは教養として尊敬されたが、漢文も学校であまり教わらないようになったようだ。典型的には、令和の元号について、これまでの漢籍を出典とする長い慣例から離れて、万葉集という和典によったことから、この傾向は今後ますます強まるだろう。

 

日本人は、「十八史略」をずいぶんと珍重した。これは、昔の手習いの教科書か、受験参考書に近いもので、かの地の読書人には典籍とはされないようだが、要領のよさ、というものはある。

 

しかし、やはり、ドキリとするようなことが書いてあるのが、中国の古典である。

 

唐太宗の項目に以下がある。

「有上書請去佞臣者、曰願陽怒、以試之。執理不屈者、直臣也。畏威順旨者、佞臣也。」

昔から、面従腹背の要領のよい口先だけの家臣が、出世して権力を握り、国に禍をなすことはわかっていて、唐の建国にあっても、そうした輩がでかい面をして皇帝の威をかりていたのであるが、ある人がそれを見かねて、そうした佞臣、上に忖度ばかりしてへつらい、陰で悪事を行う裏表のある有害な家臣を除去するために、皇帝にこのように助言した。「どうか偽りに怒ってみて、試してください。道理に従って屈さない者は、正直な家臣で、威厳を恐れてさようごもっともというのは、口先だけの家臣です。」と。

ところが、太宗皇帝はこのように反論した。

「上曰、我自為詐、何以責臣下之直乎、朕方以至誠治天下。」

皇帝がいうには、「自分が詐欺をしたら、どうして家臣に正直であることを追究できようか。できない。朕は、至誠すなわち徹底した正直をもって、天下を治めたい。」と。

 

皇帝が明察であればあえて部下を試すまでもなく、また、徹底して嘘をつかない裏表のないリーダーシップの下では、家臣はそれをおそれて虚偽報告をすることもない。今のはやりでいえば、トランスペアレンシーが一番のガバナンスだということである。

 

帝王学というのも、なんのことはない、存外こうした単純なモラル・フィロソフィにすぎなかったのである。