aeonnous’s blog

Aeonnous教授の隠逸生活と意見

読書日記 「狩野亨吉の生涯」

狩野亨吉は、夏目漱石の親友で、東京大学出身、第一高等学校校長、京都帝国大学文科大学学長をつとめました。

 

学識豊富で、多くの人材を育成しながら、生前に公開された著作については、安藤昌益の「発見」や、偽書の排撃など数えるばかりで、その浩瀚なる学識に比べてきわめて寡作でした。正真正銘の自由自在な「知の巨人」(最近やや使い古された表現ですが)だったといえましょう。

 

漢学者の家に生まれ、東京大学では数学科をまず修め、文学科に進み、国宝となる書物を蔵書とし十万巻の書物を渉猟したその文章は、本当によんでいて「痺れる」ものがあります。

 

2015年には、一高の「跡地」の東京大学駒場キャンパス駒場博物館で、生誕150年記念の特別展が開かれましたが、その公式HPに、このようなエピソードが記されていました。

 

(引用はじめ)

多くの人材を輩出した一高校長時代の中でも、鳩山一郎・秀夫兄弟の
入寮問題は、狩野の清廉実直な性格を表すエピソードとして、巷間に広

く知られている。

例えば、青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』 (中公文庫、一九八七年)にも、
「長男一郎が一高に入った時、あんな寮では息子がだめになる、通学を

させるからと言いに来た(中略)彼女がとうとうとまくし立てるのをい

つものように黙って聞いていた亨吉は、〝ここは入寮が前提です。それ

が気に入らぬとすれば退学届を出して下さい。〟(中略)亨吉が自分で

語るはずはなく、恐らくは、そばに控えていた谷山生徒監あたりが漏ら

したのではないか。私たちが寮に入った時、この挿話は依然として語り

つがれていた」と記されている。
息子の入寮を阻止すべく母親春子が直談判に来たものの、狩野は特例

を認めず、言下に断ったという。外務次官鳩山和夫の権力にも屈しなか

ったという狩野の逸話は、母校の自立と自由とに誇りを抱いている一高
生にとって、好箇の話柄であっただろう。
確かに、政治的圧力をかけて息子の通学を認めさせようとする鳩山の
書簡も残されている[鳩山-2]。 しかしながら、 狩野文書に残された鳩山春

子の手紙や、当時の寮日誌などを読むと、言下に狩野が断った、という

にはやや異なる真相が浮かび上がってくる。(以下略)

(引用以上)(http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/images/kano20151206.pdf

 

狩野亨吉は、実証史学を明治以来提唱してきた学者ですから、その「逸話」

についても、史料をもとに、厳密に検討されるのは、駒場博物館の良い仕事

だったと思います。

 

ただ、逸話のようなやりとりと真相はことなるとしても、狩野亨吉が政治的圧力に応じなかったこともまた確かだと思います。

 

 

 

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読書日記 「広告の転形期」と『にぎやかな未来』

広告の転形期がいわれて久しいですね。

昭和時代の成熟した広告文化をリードした雑誌『広告批評』は、2009年、インターネット広告の時代に入ったとして、終焉しました。

昨年からは、都内の電車から、雑誌の中吊り広告がほとんどなくなりました。

そもそも、震災後、電車で新聞や雑誌を見ている人がほとんど皆無になりましたね。紙媒体の広告消費量がものすごく減少しているのはわかります。

いつのまにか、大きなターミナルのキオスクでも、英字新聞はまったくみかけなくなりました。ネットのなかった昔は英語の一番安い勉強は、駅売りのDaily Yomiuri(2013年休刊)でしたよ。

電車の中で、本を読んでいる方は、たまに見かけます。

(それは、私かもしれません。笑)

 

他方、インターネット広告は、まったくのカオスが続いていますね。

スマホのサイトによっては、広告が邪魔をして見づらいところが出てきています。

広告批評』の創刊の11年前の1968年、筒井康隆先生のSF小説「にぎやかな未来」において予見された未来は、(たしか)一分おきにCMが入るワーグナーの「LPレコード」がただでもらえるというものでしたが、「LPレコード」という媒体も供給市場からほぼなくなり、技術の向上とともに、現実はさらにナンセンスも先鋭な状況となっています。

 

たとえば、関係のない広告や、わけのわからない漫画や課金ゲームの広告をなぜ受け取らなければならないのか、ナンセンスの極みといえましょう。ひっかかると思われているのでしょうか。

いくら広告を打っても、そんな商品は買わないので、無駄というのに、広告主はいつ気が付くのでしょうか。

某他社様のポータル(はてな様ではありません)であまりに下品な漫画の広告がしつこいので、このような指摘を消費者としていたしました。

「御社の職場では、このような画像をたとえば男性職員から女性職員に見せた場合、セクハラにあたらないようなコンプライアンス状態なんでしょうか?」

まあ、こんなコメントをAIロボットがどう処理するかわかりませんが。。。。

せめてプロバイダ契約をしているポータルでは控えてもらいたいですね。月何千円も金をはらっても見たくない広告が迫ってくるのは、ポスト・「にぎやかな未来」のトラウミックな状態といえましょう。

 

CMを見て、幅広い大衆が、商品と時代を共有して、感動したり、流行語をつくったりという「大衆広告」の時代は去り、ターゲット広告という名の的外れの矢が刺さってくるナンセンスな日々を過ごすばかりとはなりました。

 

防衛策としては、自動車や食品などの無難な広告をクリックして、履歴を改善してなるべく気に入った広告が目に入るようにするのでしょうけれども、それも広告戦略にあたってしまっているような気がします。。。。

 

 

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読書日記 「空海百話」(佐伯泉澄著)

弘法大師空海は、日本の文化史の中できわめて突出した存在、天才そのものでした。

 

当時、アッバース朝イスラム帝国とならんで世界の最大の先進国であった唐帝国の文明を短期間で習得し、しかも、独自の学説を形成するに至ったということは、他の遣唐使の秀才連よりもさらにスケールが大きかったと言えるでしょう。

 

仏教学において緻密な解釈を行い、真言密教を大成したことは勿論、漢詩文を論じた「文鏡秘府論」などは、現在でも中国本土で学術的な評価は高いし、その書道作品も、高く評価されています。土木や暦法などの自然科学分野においてももちろんでしょう。

 

そうした空海の名言百則をあつめたのが、佐伯泉澄師の「空海百話」であり、難解な真言密教の内容を、親しみやすく、わかりやすく記しています。これは、師が一般への法話のために広報紙に連載したものを編集したものであるからですが、その中身については引用の処理も含めて学術的にも十分裏打ちされているのは、さすがは大徳の作品といえるでしょう。

 

ディレクターズチョイスということで、お気に入りの名言をあげると、それは同著223ページに収録されている空海のことばです。

一念の浄心は宛(あたか)も帝網(たいもう)のごとし。
両部界会、何ぞ影向(ようごう)したまはざらん。
一刹(いっせつ)の深信は、なおし珠玉のごとし。
十方の諸仏、何ぞ証明(しょうみょう)せざらん。(念持真言理観開白文 全集二・一八六)

帝網というのは、印度の神話で、インドラの宮殿にある宝石をちりばめた網で、それがお互いに映じてキラキラとひかるものです。それと同様に、一瞬でも、心がきれいになれば、それには真実の世界である曼荼羅そして十方の仏たちが顕現するのです、というこれは神秘主義ですが、西洋の「モナド」の思想よりも数百年早いと言えます。

人は、モナドのように、閉じた独立した球体ながら、なぜ他者や大自然と共感が生じるのでしょうか?

空海の思想は、個人主義が進む現代人にとっても非常に有益だと思います。

 

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十八史略 人物の鑑定法

中国の古典の人物鑑定学というのは、一時ずいぶんと流行した。

 

平成時代のビジネス書でも、教養書でも、孫子やら、史記やら論語やらの講釈が流行したものだった。もちろん、最近でも、「論語と算盤」が注目されたようだが、以前のような国民的流行というものには、ほど遠い感じがする。

 

最近は、なんとなく敬遠されているようだが、それにはいろいろな背景があるのだろう。現実世界においては聖人君子や英雄好漢に逢う機会はほとんどなく、したがって、自らもそのようにふるまうことはさらに必要がないという現実主義、いわゆる反教養主義の所以であろうか。

 

中国の古典を引用すると、教養主義が残っていた平成時代ごろまでは教養として尊敬されたが、漢文も学校であまり教わらないようになったようだ。典型的には、令和の元号について、これまでの漢籍を出典とする長い慣例から離れて、万葉集という和典によったことから、この傾向は今後ますます強まるだろう。

 

日本人は、「十八史略」をずいぶんと珍重した。これは、昔の手習いの教科書か、受験参考書に近いもので、かの地の読書人には典籍とはされないようだが、要領のよさ、というものはある。

 

しかし、やはり、ドキリとするようなことが書いてあるのが、中国の古典である。

 

唐太宗の項目に以下がある。

「有上書請去佞臣者、曰願陽怒、以試之。執理不屈者、直臣也。畏威順旨者、佞臣也。」

昔から、面従腹背の要領のよい口先だけの家臣が、出世して権力を握り、国に禍をなすことはわかっていて、唐の建国にあっても、そうした輩がでかい面をして皇帝の威をかりていたのであるが、ある人がそれを見かねて、そうした佞臣、上に忖度ばかりしてへつらい、陰で悪事を行う裏表のある有害な家臣を除去するために、皇帝にこのように助言した。「どうか偽りに怒ってみて、試してください。道理に従って屈さない者は、正直な家臣で、威厳を恐れてさようごもっともというのは、口先だけの家臣です。」と。

ところが、太宗皇帝はこのように反論した。

「上曰、我自為詐、何以責臣下之直乎、朕方以至誠治天下。」

皇帝がいうには、「自分が詐欺をしたら、どうして家臣に正直であることを追究できようか。できない。朕は、至誠すなわち徹底した正直をもって、天下を治めたい。」と。

 

皇帝が明察であればあえて部下を試すまでもなく、また、徹底して嘘をつかない裏表のないリーダーシップの下では、家臣はそれをおそれて虚偽報告をすることもない。今のはやりでいえば、トランスペアレンシーが一番のガバナンスだということである。

 

帝王学というのも、なんのことはない、存外こうした単純なモラル・フィロソフィにすぎなかったのである。

 

 

 

 

 


 

さようならテレビ

永井荷風のラヂヲ嫌いは有名であるが、音源で残された彼の山の手言葉は、本当に美しい。ゆえに、荷風先生は、ラヂヲを嫌悪されたのだろう。亡くなった岡崎久彦大使も、戦前の山の手言葉の響きがあった。

 

そんなことを言っても、もう誰もわからないかもしれない。めっきり山の手言葉を聞く機会も減ってしまった。

 

わたくしも、テレビを廃止してからもう何年もたつ。内容は陳腐軽薄で視聴する必要もないし、非常に時間効率が悪く、日本の労働生産性OECD最低という原因がこの受動的な受像機のシステムにもうかがえる。

昨年の五輪から今年の年末年始も、テレビのない静かな生活であった。さようならテレビ。

 

 


 

民主主義の本質と価値

19世紀の「古き良き時代」のヨーロッパに生まれ、二度の大戦の地獄の業火を見た法学者・ハンス・ケルゼンによる民主主義の論考です。

 

ケルゼンは、オーストリア・ウィーンで判事として働いていましたが、本書は、1929年、ケルゼンが書いた書籍です。その後、大恐慌、ワイマール共和国の瓦解など、情勢は第二次大戦に向けて坂道をころがっていきます。

ケルゼンが指摘した問題は、恐ろしいほど、今の時流と合致しています。

 

ケルゼンは、ルソーの自然法理論を基本的には批判していますが、ルソーの英国議会制への批判発言をポジティブに引用しています。

「英国民は自分たちを自由だとおもっているが、それはひどい自己欺瞞である。彼らが自由なのは、議員選挙中に過ぎない。議員が選ばれてしまえば、彼らは奴隷となり、無となる。」(ケルゼン著 長尾龍一ほか訳『民主主義の本質と価値』岩波文庫版p19)

 

コロナ時代の「分断」がよく報じられていますが、ケルゼンはすでに90年前に、「国民」とよばれているものが、統一体かどうかについて疑いを呈しています。

 

「しかし、物事の現実を対象とする考察においては、国民の名において登場する『統一体』なるものほど、疑わしいものはない。国民は、民族的・宗教的・経済的対立によって引き裂かれており、社会学的には、均質の固形凝集体であるというよりも、諸集団の束である。」(同上 p30)

 

擬制に満ちた議会制民主主義が、より国民の意思を反映できるように、ケルゼンは以下の提案をしています。

 

 法案などに対する国民投票制の活用による直接民主主義の導入  (同上 p55)

    議員の免責特権の廃止            (同上 p58)

 

リアリズムに徹した明察の人は、もう何十年も前に全てがわかっているわけですね。

 

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はてなブログ10周年特別お題「好きな◯◯10選」

はてなブログ10周年特別お題「好きな書店10選」

 

この10年で、本屋もだいぶ少なくなってきましたね。ただ、ネット書店では手に取ることができませんが、書店では手に取って買うことができます。この違いは大きいです。

 

本屋とネット書店の違いはやはり、ソムリエがいて配置や企画ができているかということで、セレクション、キュレーションができているかに係りますね。無駄に雑書雑本の山で時間をつぶさないで済みます。

 

第10位 ジュンク堂 立川店

 こちらもまた大型百貨店の建物の中の巨大書店ですね。品揃えもよさそうですが、まだ回り切れていません。

 

第9位 東京大学生協書店

 さすがに雑書の類は切り捨て御免ですねえ。良書を選ぶなら効率はいいです。 

 本探しや予約はプロ的な対応でよかったです。 

 

第8位 青山ブックセンター

 六本木の青山ブックセンターは、80年代のバブル時代を知るものにはなつかしいですね。爛熟繁華なあの時代、美的センスをたもった書店とその品ぞろえは異彩をはなっていました。ガンジー自伝を買ったのはその頃でした。

 

第7位 丸善 お茶の水

 ここも学生以来のながいお付き合いですね。場所柄、学習参考書や語学書、児童書はよい品ぞろえです。適当な規模で適当な品ぞろえで、さっくり回るにはよいですね。まだ、チャイコフスキーの弦楽セレナーデが延々とかかっているんでしょうか。カバーも昔からのデザインで、白い背なので、署名を書きこみやすいです。

 屋外の特売コーナーで売る文具雑貨は、結構たのしかったです。

 

第6位 啓文堂書店  京王百貨店新宿店ほか京王線沿線

 意外とよいのが、啓文堂です。雑誌、新刊書の配本はいいですね。それから、健康法ものや料理本みたいな実用書も意外と役に立つよいものが見つかります。

 駅の書店のようなもので、店員さんは普通です。

 

第5位 八重洲ブックセンター

 巨大でほかの書店(ネット書店含めて)で見当たらない本も、あれば最終的にはみつかります。

 ただ、難点は、大きくて疲れます。店員さんもまあまあかな。

 

第4位 東京堂書店 神田神保町

 この10年でだいぶ売り場面積が狭くなってしまいましたが、「読書人の」と題するだけあって、まだまだ重厚な雰囲気のある書店です。カバーやオリジナルしおりもよかったです。

 

第3位 紀伊國屋書店  新宿本店

 タイル張りの昭和の名建築は、なぜかほっとします。文庫新書コーナーはまとまっていて、そこを一周するだけでずいぶん時間が過ごせます。販売の店員さんも丁寧で、本を探す端末もあってよいです。

 昔ながらのカバーも安定感があります。独自の1%ポイント制がありますが、10万円かって1000円でここだけで蓄積するのはちょっと道が遠い感じがします。

 交通の便もよく、下の名店街も昔ながらのレストランや趣味の小物の店がありますね。適当に休めてよいです。

 

第2位 代官山 蔦屋書店

 ここも言わずと知れた美しい書店です。私の場合は、本を買いに行くというよりも、遊びに行くという感じですね。CD,DVDや書籍、洋書、文具など、手広く扱われ、また、企画もよく、適当に休息できるので、好きな書店です。店員さんの感じも良いです。ポイント制度の元祖だけあって割引感もあります。

 

第1位 三省堂書店 本店

 本の街神田の中心に聳え立ちます。書籍の品ぞろえはとくに人文系の専門書も手厚く、文具、趣味雑貨から喫茶、催し物場まで、昭和のデパート感がありますが、それゆえに昭和世代には使いやすいです。巨大物販でしかたないかもしれませんが、もうすこし店員さんが機械的でなく親切だといいのですが。