aeonnous’s blog

Aeonnous教授の隠逸生活と意見

今週のお題「復活してほしいもの」インスタントラーメン編

今週のお題「復活してほしいもの」インスタントラーメン編

それは、ずばり、

明星 劉昌麺

でしょう。「劉昌さんのお鼻はなぜ赤い、あさからばんまで味作り」というCMソングは、半世紀を経ても、私の脳裏から離れないのであります。その味も、先行する「明星チャルメラ」に比べますと、ホタテなどのスープの味は深く、また、おそらく、四川味噌と表記された醤(チァン)の使用は、「中華三昧」に向かうインスタントラーメンの高級化志向の先鞭だったといえましょう。

明星食品様は、社史編纂がしっかりとしていらっしゃいますので、すぐに歴史がわかります。発売は1970年10月でした。

明星70周年社史 | 明星食品

上記の明星食品様のHPから、貴重な図を引用して広報に協力したいとおもいます。。。

 

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(上記の明星食品HPより引用)

えー、教授らしく評論しますと、まず、この包装の絵は、本場中国の味というコンセプトにしたがって、めでたい紅色を下地にして、魯迅が推奨した中国の近代芸術である切り絵を彷彿とする画法で構成されており、伝統的かつ大胆な構図で力強く、モチーフは、「文昌塔」という天界で智慧をつかさどる福星である「文昌星」をまつる塔がそびえ、また、長寿をあらわす松がとりかこみ、瑞雲がたなびくという点で、ながら神仙趣味が横溢する吉祥図案であるといえましょう。題字もまた、魯迅版画風の単刀直入の筆致であり、魏碑体をベースに、角張った方筆にしてしなやかな湾曲も見せる軽妙なすぐれた書体となっております。

ざんねんながら、劉昌さんは、國史館で列伝を建てられた方のようでもなく、はたして実在の人物かすらも現在となってはその詳細は不明ですが、パッケージの「文昌塔」は、まさに昌の字を含むもので、同氏の暗喩ともいえましょう。

現代経済史として考察いたしますと、おそらく、メーカー様としては他者様の「出前一丁」の香港進出とならんで、アジアへの輸出が念頭にあったのでしょうか。70年代のアジアの食品モデルをねらったものといえましょう。

まさに日中国交正常化を1972年にひかえ、本場の味というものに関心がたかまった時代でした。あれから50年、「劉昌麺去って空しく残る文昌塔」という、縹渺たる唐詩気分(下注)もただよってくるのでございます。

(注)“昔人已乘黄鶴去,此地空余黄鶴楼。”。。。。

 

(以上、講義おわり。)

 

 

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今週のお題「復活してほしいもの」 お菓子編

今週のお題「復活してほしいもの」

この年になると、正直、たくさんありますねえ。

 

お菓子で、もういちど食べたいのは、「明治ストロベリーパイ」ですねえ。

傍証によると、名前はどうやら「明治フレンチパイ スロトベリー」が正式だったようです。

ちょっと上品な感じが、伝説の昭和元禄時代、俗にいうバブル時代にマッチしていましたね。しっかりと練りこまれたバターの香り立つさっくりとしたパイ生地に、澄み渡るゼラチンベースのストロベリージャムが乗り、これは本当に口福の瞬間でした。

夜の勉強のお供に最適で、結構カロリーが高いので、空腹もしのげました。

こうしたお菓子が大量生産でき全国に流通できたのは、さすが昭和の産業力でした。

 

それから、「復活してほしいもの」お菓子編としては、「カール・カレー味」ですね。カールが新発売になったのは、昭和43年、私は小学生でしたが、その興奮はこども社会を圧倒しましたよ。駄菓子屋さんにはおいていない、菓子革命とでもいうべきものでした。しかし、その後、カレー味が登場したときは、第二革命とでもいうべきものでしたよ(私にとって、ですが)。幼稚園児→齢50を超える初老のおじさんに至るまで、もっとも望ましいおやつ→ビールのつまみは、カール・カレー味でしたよ。

そのカールももはや東日本では入手困難、カレー味は絶滅してしまいました。貴重なチーズ味に、カレー粉をまぶしても、あの味にはなりません。

 

 

 

 

 

分断社会と五輪

五輪は1936年のベルリン大会で、各国のナショナリズム高揚の場となった。

優勝選手が多い国が強国であり、すぐれた体制であるという競争の場となった。

スポーツに国境はないといいながら、国境を設けて、国同士が競うこととなった。

 

もちろん、五輪ではいいわけはされていて、掲揚台にあがる旗は国旗ではなく、各国五輪委員会の旗であり、政治化はしていないという。これを、故事ことわざで、「鹿を指して馬という」、というのである。実際は団旗と国旗が違うのは例外的で、国旗は国旗だ。だから、私は五輪はみたくない。

 

団体競技でも、国籍混交でよいのに、外国人はナショナルチームには入れない。

チームビルディングを経て受け入れられた外国人選手でも、排除される。あるいは、父母の国を離脱して帰化しなければならない。金にあかした「傭兵化」や選手引き抜きを禁止したものだろうが、4年以上滞在すればいいのではないか。この国際化した世界の現実に目を背けるようなものだ。だから、私は五輪は見たくない。

 

特に個人競技は個人で競争すればよいものを、選手は国を背負い立つ。

ここに、一種の悲劇性が生じることもある。だから、私は五輪は見たくない。

ミスしたっていいじゃないか。別に国を背負う必要はないよ。

思いつめる必要はないさ。

 

おそらく、すでに国際政治では「反エリート主義」が潮流となっているが、さらに社会の分断が進むと、ほとんど多くの人たちは、スポーツエリートに対しても政治エリートに対する同じまなざしを向けるだろう。

スポーツエリートに対するその自己犠牲や鍛錬への尊敬よりも、多くの人がリソースを共有できない早期英才教育、スポンサーの存在、政府補助金や報奨金などをエリートが独占していることへの不公平感が強まっていくかもしれない。不快な現実に直面すると、人は多く無関心になる。

 

反発や無関心の兆候が、五輪中継への世界的な視聴率の低下である。

国の代表としてのラべリングによって、ますます反エリート主義の標的となりうる。

 

スポーツの栄光を、もう一回、人間の尊厳にたちかえり個人レベルにもどすべきではないだろうか。すなわち、国歌国旗を用いず、外国人のナショナルチーム参加を緩和し、また、極端な商業主義を排することにある。

 

 

読書日記 「空海百話」(佐伯泉澄著)

弘法大師空海は、日本の文化史の中できわめて突出した存在、天才そのものでした。

 

当時、アッバース朝イスラム帝国とならんで世界の最大の先進国であった唐帝国の文明を短期間で習得し、しかも、独自の学説を形成するに至ったということは、他の遣唐使の秀才連よりもさらにスケールが大きかったと言えるでしょう。

 

仏教学において緻密な解釈を行い、真言密教を大成したことは勿論、漢詩文を論じた「文鏡秘府論」などは、現在でも中国本土で学術的な評価は高いし、その書道作品も、高く評価されています。土木や暦法などの自然科学分野においてももちろんでしょう。

 

そうした空海の名言百則をあつめたのが、佐伯泉澄師の「空海百話」であり、難解な真言密教の内容を、親しみやすく、わかりやすく記しています。これは、師が一般への法話のために広報紙に連載したものを編集したものであるからですが、その中身については引用の処理も含めて学術的にも十分裏打ちされているのは、さすがは大徳の作品といえるでしょう。

 

ディレクターズチョイスということで、お気に入りの名言をあげると、それは同著223ページに収録されている空海のことばです。

一念の浄心は宛(あたか)も帝網(たいもう)のごとし。
両部界会、何ぞ影向(ようごう)したまはざらん。
一刹(いっせつ)の深信は、なおし珠玉のごとし。
十方の諸仏、何ぞ証明(しょうみょう)せざらん。(念持真言理観開白文 全集二・一八六)

帝網というのは、印度の神話で、インドラの宮殿にある宝石をちりばめた網で、それがお互いに映じてキラキラとひかるものです。それと同様に、一瞬でも、心がきれいになれば、それには真実の世界である曼荼羅そして十方の仏たちが顕現するのです、というこれは神秘主義ですが、西洋の「モナド」の思想よりも数百年早いと言えます。

人は、モナドのように、閉じた独立した球体ながら、なぜ他者や大自然と共感が生じるのでしょうか?

空海の思想は、個人主義が進む現代人にとっても非常に有益だと思います。

 

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早手回しにホワイトデーの検討中  神田精養軒のマドレーヌ

だいぶ薄れていますがまだまだ義理と人情の日本の職場、義理にからめてチョコレートの配給があるかなと思い、お返しを早手回しに考えています。

 

今年は、昭和レトロに「神田精養軒のマドレーヌ」にしようかと検討中です。

https://edepart.omni7.jp/detail/00100014582402900042

 

バブル後の不景気で一度は市場からきえましたが、ありがたいことに、昭和レトロの御同輩の支援でしょうか、復活しています。昭和の御馳走でした。これに日東紅茶の黄箱がついて、オールド・ノリタケでサーブすれば完璧です。

 

チョコをいただく義理に篤い御同僚も、昭和世代ですから、きっと受けてくれるかなと思います。

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「現時点での今年の漢字」 「銭」

今週のお題「現時点での今年の漢字

 

それは 

でしょう。

 

両替が困難となった小銭がいまやたいへん使いづらい世の中になりました。

新年早々、お賽銭をあつめた神社仏閣もこまっているようです。

 

明治以来長らく庶民の貯蓄をあずかってきた「ゆうちょ銀行」が、今年一月から硬貨の貯金預け入れに、顧客からみればこれはちょっと、と思える手数料を徴収することになりました。

 

(以下ゆうちょ銀行HPから引用)

<硬貨を伴うお預け入れ>

(税込)

硬貨枚数 料金
1~25枚 110円
26~50枚 220円
51~100枚 330円

 

(引用終わり)

 

10円玉一枚の貯金に、110円を徴収するわけですね。

 

この両替手数料は、経済弱者にとって大変な負担となり、日本最大規模の貯金額を擁するゆうちょ銀行が、メガバンクよりも多い手数料をとることのがなぜなのか、私には理解できません。銀行の経営者や政策決定者は、110円をまさに小銭と嗤うかもしれませんが、コンビニの110円のおにぎり一つで食事を我慢している人がいかに多いか、社会の分断というものに思いを致さざるを得ません。

 

郵便貯金法では以下の規定がありました。

 

(引用はじまり)

郵便貯金法  第一章 総則

第一条(この法律の目的) この法律は、郵便貯金を簡易で確実な貯蓄の手段としてあまねく公平に利用させることによつて、国民の経済生活の安定を図り、その福祉を増進することを目的とする。

(引用終わり)

 

国民のための簡易で確実、公平という旧郵便貯金の理念はどこに行ってしまったのでしょうか。この郵便貯金法を改正した郵政民営化法は、以下のように謳っています。

 

(引用はじまり。朱字筆者色付け。)

(基本理念)
第二条 郵政民営化は、内外の社会経済情勢の変化に即応し、公社に代わる新たな体制の確立等により、経営の自主性、創造性及び効率性を高めるとともに公正かつ自由な競争を促進し、多様で良質なサービスの提供を通じた国民の利便の向上及び資金のより自由な運用を通じた経済の活性化を図るため、地域社会の健全な発展及び市場に与える影響に配慮しつつ、公社が有する機能を分割し、それぞれの機能を引き継ぐ組織を株式会社とするとともに、当該株式会社の業務と同種の業務を営む事業者との対等な競争条件を確保するための措置を講じ、もって国民生活の向上及び国民経済の健全な発展に寄与することを基本として行われるものとする。
(引用終わり)

 

国民の利便の向上が公約されたからこそ、国民は郵政民営化を支持したのでした。

国民生活がコロナによって窮乏している現在、なぜこのような措置を、政府が最大株主である日本郵政の子会社である「ゆうちょ銀行」が行うのか、理解できません。苛斂誅求といわれても仕方がないでしょう。

 

そもそも、日本国が発行した貨幣として、1円玉、5円玉、10円玉、50円玉、100円玉、500円玉は、20枚までは法定通貨としての通用力があるんです。

 

(引用始まり)

法貨としての通用限度)
第七条 貨幣は、額面価格の二十倍までを限り、法貨として通用する。
(磨損貨幣等の引換え)
第八条 政府は、磨損その他の事由により流通に不適当となつた貨幣を、額面価格で、手数料を徴収することなく、財務省令で定めるところにより、第二条第一項に規定する通貨と引き換えるものとする。
(引用終わり)
 
だから、メガバンクも50枚から100枚までは預入に手数料をとりませんね。ほかの銀行ができることが、なぜ「ゆうちょ銀行」にできないのでしょうか、カスタマーとして知りたいところです。
 
戦後、インフレーションによって、銭の単位が廃止になったとき、政府は、予算措置をおこなって回収基金を用意し、半年の猶予で整理回収をしました。昔の日本人はきちんとしていましたね。また、戦後はそうしたまじめな政府だったので、国民も今より信頼をしていたのでしょう。
 
国民、金融機関、そしてかつての政府が、一銭、一円をゆるがせにしないことで、日本円は国際社会で、信頼されてきたような気がします。日本の「銭」はどこにいってしまうのでしょうか・・・
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十八史略 人物の鑑定法

中国の古典の人物鑑定学というのは、一時ずいぶんと流行した。

 

平成時代のビジネス書でも、教養書でも、孫子やら、史記やら論語やらの講釈が流行したものだった。もちろん、最近でも、「論語と算盤」が注目されたようだが、以前のような国民的流行というものには、ほど遠い感じがする。

 

最近は、なんとなく敬遠されているようだが、それにはいろいろな背景があるのだろう。現実世界においては聖人君子や英雄好漢に逢う機会はほとんどなく、したがって、自らもそのようにふるまうことはさらに必要がないという現実主義、いわゆる反教養主義の所以であろうか。

 

中国の古典を引用すると、教養主義が残っていた平成時代ごろまでは教養として尊敬されたが、漢文も学校であまり教わらないようになったようだ。典型的には、令和の元号について、これまでの漢籍を出典とする長い慣例から離れて、万葉集という和典によったことから、この傾向は今後ますます強まるだろう。

 

日本人は、「十八史略」をずいぶんと珍重した。これは、昔の手習いの教科書か、受験参考書に近いもので、かの地の読書人には典籍とはされないようだが、要領のよさ、というものはある。

 

しかし、やはり、ドキリとするようなことが書いてあるのが、中国の古典である。

 

唐太宗の項目に以下がある。

「有上書請去佞臣者、曰願陽怒、以試之。執理不屈者、直臣也。畏威順旨者、佞臣也。」

昔から、面従腹背の要領のよい口先だけの家臣が、出世して権力を握り、国に禍をなすことはわかっていて、唐の建国にあっても、そうした輩がでかい面をして皇帝の威をかりていたのであるが、ある人がそれを見かねて、そうした佞臣、上に忖度ばかりしてへつらい、陰で悪事を行う裏表のある有害な家臣を除去するために、皇帝にこのように助言した。「どうか偽りに怒ってみて、試してください。道理に従って屈さない者は、正直な家臣で、威厳を恐れてさようごもっともというのは、口先だけの家臣です。」と。

ところが、太宗皇帝はこのように反論した。

「上曰、我自為詐、何以責臣下之直乎、朕方以至誠治天下。」

皇帝がいうには、「自分が詐欺をしたら、どうして家臣に正直であることを追究できようか。できない。朕は、至誠すなわち徹底した正直をもって、天下を治めたい。」と。

 

皇帝が明察であればあえて部下を試すまでもなく、また、徹底して嘘をつかない裏表のないリーダーシップの下では、家臣はそれをおそれて虚偽報告をすることもない。今のはやりでいえば、トランスペアレンシーが一番のガバナンスだということである。

 

帝王学というのも、なんのことはない、存外こうした単純なモラル・フィロソフィにすぎなかったのである。